長野県の沿革

長野県統計協会をご存じでしょうか。
長野県民手帳という長野県民に大人気の手帳を販売しているところ、と言えば分かる方もいるかも知れません。
2022年版も販売しているので、良ければどうぞ。

その長野県統計協会は、他の文献も出している事を友人に教えて頂きました。
「長野県勢要覧」です。

この文献は統計っぽい数字の変遷が書かれていて、これはこれで面白くお勧めです。
ですが、冒頭に書かれていた「長野県の沿革」が4万年前のマンモス追っていた時代から→北陸新幹線が金沢まで開通しました、までが2ページでまとめられています。
見たことがある地名などがちりばめられて面白かったし、すごい短かったのでそのまま貼り付けます。

 

長野県勢要覧 長野県の沿革

原始

4万年程前、大型動物を追って、人々が長野県の地に暮らし始めた。
野尻湖(上水内郡信濃町) 付近で出土した石器やナウマンゾウなどの動物の骨から、ここで人々が多くの動物を捕獲、解体していたことがわかる。
また、県内では、日本各地の特色を持つ石器が発見されており、この時代既に東西文化の接点だったことがうかがえる。
約1万6千年前、土器をつくる縄文時代に入った。
とりわけ、中期には縄文文化が繁栄をきわめ、県内各地に豊かな文化が出現した。
八ヶ岳西南麓の井戸尻(富士見町)・突石(茅野市)遺跡などから出土した土偶や土器が、当時の文化の高さを物語っている。
また、八ヶ岳から和田峠にかけて採取された黒曜石は石器に加工され、主に東日本に流通し、青森県の三内丸山遺跡からも発見されている。
約2,300年前、弥生文化が伝わり、青銅器・鉄器が用いられ、水稲農耕が展開した。
長野自動車道などの建設に伴う発掘により、水田遺構も多く発見された。
4世紀半ばから古墳時代となり、弘法山古墳(松本市)や森(千曲市)・川柳(長野市)両将軍塚など多くの古墳が造営された。

古代

大化改新後の7世紀後半、東山道の一国として、律令制による「科野国」(しなののくに)が成立し、
国府が上田に置かれ、伊那・諏訪摩・安曇・佐久・小県・埴科・更科・高井・水内の10郡が置かれた。
713年の好字令により、科野国の表記は「信濃国」に改められた。
奈良時代、信濃国は東国支配の拠点となり、望月牧など馬を育てる16の御牧も設置された。
わずか10年余りであるが、諏訪国が分立した時期もあった。
奈良時代末に、国府は上田から松本へ移った。
麻布や馬が特産品となり、また、善光寺や諏訪大社、修験の戸隠山が広く知られるようになった。

中世

牧を基盤に弓馬に長じた信濃の武士は、保元・平治の乱で活躍し、1180年に挙兵した木曽義仲に従って都入りした。
鎌倉幕府成立後、信濃国は源頼朝の知行地となり、信濃の武士の多くがその御家人となった。
その後、諏訪氏ら北条氏一門の武士が信濃各地に配され、北条義政が隠遁した塩田平は、「信州の学海」 と称されたほど文化が進んだ地となった。
この時期、諏訪大社の祭礼には、信濃国中の御家人が奉仕し、諏訪社は全国に勧請された。
また、善光寺も源頼朝・北条氏の厚い庇護を受け、阿弥陀信仰の広がりとともに、全国各地で善光寺別院の造営や善光寺如来像の模造が行われた。
信濃の武士たちは、国人(在地領主)として力を伸ばし、特に東北信の国人たちが結束(「大文字一揆」)して室町幕府が派遣した守護を追い返した。
1400年の「大塔合戦」は、国内の大半の国人が結束する大規模な一揆となった。
戦国期には、武田、上杉などの外部の勢力に従う者が多く、両軍が激戦を繰り広げた川中島は、あまりにも有名である。

近世

18世紀初めまで大名の改易・移封が重ねられ、江戸時代の信濃には松代、上田、小諸、岩村田、竜岡(田野口)、松本、高島、高遠、飯田と幕府領が入り組む状態であった。
中馬と呼ばれる民間の運送業者が生まれ、各地で産業が発達し、善光寺詣も盛んになった。
また、儒学者の太宰春台(飯田藩)、開国論を唱えた佐久間象山(松代藩)らの活躍や俳人小林一茶らを頂点とする民衆文化も発展した。
この時代の信濃地域は、東西南北の人々と物資、文化が交わる十字路の役割を果たすことになった。

近代

明治維新により旧幕療領が没収されて伊那県が設置され、飯島陣屋(上伊那郡飯島町)に県庁が置かれた。
伊那県は1870年に分割され、東北信地域が中野県となったが、「中野騒動」で県庁が消失したため、1871年6月に長野村へ県庁が移されて長野県となった。
同年7月の廃置県により佐久・小県・更級・埴科・高井・水内の6郡が長野県に、諏訪・伊那・筑摩・安曇の4郡と飛廉地域が筑摩県となったが、
1876年に筑摩県は廃止となり、飛地域を除いて長野県に合併した。
こうして信濃全域を統治する現在の長野県が誕生したが、県庁が北に偏っているなどの理由から南北間の地域間対立が厳しくなり、
県庁を松本あるいは上田に移す移庁論や中南信を長野から独立させる分県論も起こった。
日本は、1931年の満州事変に始まり、1941年には太平洋戦争開戦と長く厳しい戦争の時代に突入した。
満州事変から太平洋戦争終結までの期間に兵事動員された県民は約23万人、そのうち5万3千人余りが戦病死した。
また、満蒙開拓団員として海を渡った県民は3万数千人に上り、その送出数は全国一であったが、終戦時の避難と混乱の中で、1万6千人以上が犠牲となった。
1947年実施の戦後初の総選挙は、女性の選挙権を認めた初めての総選挙であり、長野県の女性議員数は全国一となった。
明治以降の長野県は、製糸業が産業の中心であったが、蚕業の減少とともに衰退し、
戦後は特に、時計製造などをはじめとする精密機械工業等が発展し、長野県の工業発展のけん引役として大きく貢献した。
一方、農村部では過疎化が進み、過疎対策が各地域の課題となった。
県内の高速交通網整備については、長野県の空の玄関口である、松本空港が1994年にジェット化され、現在は、札幌、福岡便を中心に運航している。
また、1997年には北陸新幹線(東京-長野間)が開業し、2015年には金沢まで延伸した。1998年には72の国と地域が参加した
「長野冬季オリンピック・パラリンピック」が開催され、今も国際交流の輪が、大きな広がりを見せている。

(長野県立歷史館資料)