佐久穂町内の地区の特色があれば教えてください
佐久穂町の地区の・・・特色?
聞かれるまでそれほど考えたことはなかったんですが、そう言われてみれば何かあるかも知れません。
佐久穂町の地区と言えば、今では「区」の単位がそれに当たりますが、今の区にどれほどアイデンティティ(≒特色)を持っているかはまちまちです。
と言うのも、佐久穂町は町や村の合併により今の形になっており、佐久町と八千穂村が合併したのも2005年と割と最近です。
故郷(≒土地≒地区)に対するアイデンティティの形成が15歳だとすると、1990年生まれの34歳の人は、佐久穂町へのアイデンティティは薄いかも知れません。
逆に言うと、これまでの合併の歴史を振り返れば、各年代における故郷のアイデンティティが分かり、即ち地区の特色が見えてくるかも知れません。
今回は、佐久穂町の合併の歴史を振り返りつつ、特色について個人的な見解を書いてみたいと思います。
佐久穂町の沿革はこちら
https://www.town.sakuho.nagano.jp/oshirase/machi/gaiyo/sogoseisakuka_300.html
2005年 佐久町と八千穂村の合併
前述ですが、2005年に佐久町と八千穂村が合併しました。
2005年と言えば私は高校1年生であって、私の席の近くに佐久町出身と八千穂村出身の友達がそれぞれいました。
彼らは特色ある友人でしたが、その特色が住んでいる場所によるのかは分かりません。
ただ、1つだけ言えるのは「佐久町と八千穂村は別」と考えているだろうということです。
出身はどこかと聞かれたら、佐久穂町とは答えない。
そんな感じです。
34歳以上の人はだいたい同じような感じじゃないでしょうか。
さて、ここで34歳以上の佐久町と八千穂村の特色について個人的な見解を書いてみます。
2000年前半はヤンキー、暴走族文化の最後だったと思います。(女性の文化は正直知りません。。)
そして、2000年の佐久地域のヤンキーと言えば、中込に集中していました。
中込には映画館やカム21という商業施設?の最上階にゲームセンターがあり、ヤンキーはここらにたむろっておりました。
(中込以外にも、野沢リッチランド、臼田サンマルコ、中込パラスなどがあったようです。行ったこと無いけど)
(また中込周辺がヤンキーの聖地だったのもこれが最後で、この後は佐久平やアムアムのゲーセンに中心地は移っていきます。)
なので、中込に近いほどヤンキーっぽい。
つまり、佐久町の方がヤンキーっぽい。八千穂村の方が真面目っぽい。
と言うのが私の個人的な見解です。
ヤンキーっぽいのは良い面もあって、最初はどこか他人っぽい感じを出されますが、一度ふところに入ってしまえばすごいウェルカムになります。
真面目っぽいのは普段はとても人当たりも良くていい人なんですが、仲良くなったかな?と思ってもまだまだ全然他人で、仲間になる門戸が狭かったりもします。
って感じですかね。
はい次。
1976年 大日向村が佐久町に併合
大日向村が佐久町に入ったのは1976年で2024年から数えると48年前です。
割と最近ですね。
15歳アイデンティティ理論を適用すると、今の63歳の人はアイデンティティが異なります。
おらが街と言えば大日向で、故郷に錦をと言えば大日向になります。
言語に対する画像イメージが、大日向特有の山に囲まれているあの風景になるのです。
大日向の特色は、大日向小学校ができた事もあり、空気が変わっているかも知れません。
空気と言うのは、閉鎖的な村社会から、新しい人を取り込む経験をしている社会となったということです。
経験したことが無いから不安だった段階から、経験して良いも悪いも具体的に分かる段階になったように思います。
やっぱりすごい、学校が新しくできるってことは。
1958年 千代里が併合、1956年 畑八村と穂積村が合併して八千穂村へ
1956年から1958年に畑八村と穂積村が合併、更に千代里地区が併合されます。
個人的には、3つの村の文字を取って八千穂村になっていると思っています。
良い名前ですよね、八千穂って。
15歳アイデンティティを考えると、83歳とかになりますが、この辺りになるとどうなんでしょうね。
アイデンティティの認識は無いと思いますが、でもまぁ、自分のテリトリーは広くても八千穂村までですよね。
実は八千穂村の生活圏は南佐久地域に寄ってたりします。
買い物や病院には小海町に行った方が近いのです。
2004年に国道141号が臼田から4車線になって以来、佐久平まで結構早く行けますが、これまでは、まぁまぁ時間がかかったのです。
今では高速道路もある。早い。
車で東京に行く時は通る高速道路が違って面白いです。
佐久市は関越道で向かいますが、八千穂村では南下して中央道に向かいます。
試しにディズニーランドまでの時間を(今の道路事情で)検索しました。
関越か中央道を使うかの時間の分岐点は小海町役場の少し南くらいになります。(小海町役場から関越だと2時間59分228km、中央道は3時間7分210km)
佐久平までの道中はかつては時間かかっていたので、八千穂村(佐久町も同じだけど)では当然のように中央道を選択します。
地区はもともと村だった
これ以降の合併は明治になるので、合併時の記憶のある人は少ないでしょう。
これまでの合併の変遷を見ると、現存する区のほとんどはかつては村だったことが分かります。
程度の差は有れど、お祭りとかを大事にやっている区は、アイデンティティが強いかも知れません。
特に、高野町と上畑はかつて宿場町だったので何かしら伝統や文化がありそうです。
逆に言うと、かつての村の名前でない区は、新しく造成された土地なのかも知れません。(そうじゃないかも知れないが)
新しい土地は住んでいる人の世代が浅いので、代々継承されてきた土地感は薄いのかも。
高野町の特性
では、私が所属している高野町地区の特性を書いてみましょう。
高野町には役場や病院、郵便局、スーパーがあるので、住む利便性は高いと言えるでしょう。
ですが、特性という意味で外せないのは「甲州街道の宿場町だった」のと「東町商店街の盛衰」でしょう。
甲州街道の宿場町ってことは、長年の伝統や文化があります。
8月に行われる祇園祭は地区のお祭りとしてはとても大きな規模で行われています。
東町商店街の盛衰は1915年の小海線の羽黒下駅開通後、働き手と物資の増加に伴い歓楽街および商店街として栄えました。(当時は羽黒下駅が終点だった)
1931年には栄キネマっていう映画館も出来たりして、あの頃は良かったよ~のアイデンティティが形成されます。(桜町には栄座という演芸館があった)
80代の人々はこの頃の話をよくするので、1950年代くらいまでは栄ていたのではないでしょうか。
その後、だんだんと人がいなくなり、お店が無くなり、1960年代に勢いが止まったのではなかろうかと思います。
この部分に高野町に住む60代以上の人の特性があると思っていて、彼らは自分の地区が発展している、活気がある、活性化しているイメージが明確にあります。
これから地域活性化しよう!という話が出たら、目指すべき”あの頃”が良くも悪くも確立されている。
ってのが特性だと思います。
60代より下は栄えていた時を知らないので、昔話みたいに色んな人から当時の話を聞いている事でしょう。(昔話に聞こえるほど信じられないくらい栄ている)
とまぁ、色々偉そうに書いてみましたが、出会う人や隣に住んでいる人がどんな人かは運要素がほとんどです。
特性として一括りに出来ないほどの個性をそれぞれお持ちだと思います。
ただまぁ、土地の特性(歴史)を少し知っていると「あれ?どうして?なぜ?」の時の考えるとっかかりにはなると思います。
特性が分かったかな?分からなかったら色んな属性の人に地区の歴史を聞いてみよう!